情報操作と詭弁ー論点の誤謬

文法曖昧の誤謬

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文法曖昧の誤謬

grammatical ambiguity

前提となる言説に使われている曖昧な構文を誤解釈して異なる結論を導く

<説明>

論証とは前提から結論を導くプロセスですが、前提となる言説に使われている構文が文法的に曖昧な場合には、その構文に真実と異なる解釈を行うことで、異なる結論を導いてしまうことがあります。これを文法曖昧の誤謬と言います。

詭弁を使うマニピュレーターは、この文法曖昧の誤謬につけこんで、意図的に前提となる言説を誤解釈することで自分にとって好都合な結論を導きます。

誤謬の形式

前提の言説Spに使われている曖昧な構文Sgの意味はmfなので、結論の言説Scfが導かれる。

※ここで、構文Sgの意味するところはmfではなくmtであり、前提の言説Spから導かれる真の結論の言説はSctである。

<例>

<例>
明るい茶髪の美しい少女と母親が歩いている。

この文章で記述されている「少女」がどのような少女であるのかを解釈するにあたって複数の可能性があります。

  • 明るい少女であり、茶髪の美しい少女
  • 明るい茶髪の少女であり、美しい少女
  • 明るい茶髪が美しい少女

また「母親」がどのような母親であるのかを解釈するにあたっても複数の解釈の可能性があります。

  • 少女の母親
  • 子を持つ女性
  • 話し手の母親

さらに単語の可能性を考えれば、「少女」「母親」は、それぞれ「少女」「母親」という名前を持つ人、もっと突き詰めれば「少女」「母親」という名前を授けられた歩行可能な動物でもよいことになります。

曖昧な文法とは、【構文 syntax】の意味を一意に定めることができずに多義にしてしまう文法のことです。構文を解析する一般的な方法として、一つの構文を枝分かれさせながら構成要素に分割していく【構文木 parse tree】という方法がありますが、曖昧な文法が存在すると、一つの構文から複数の構文木が生じてしまいます。

<事例>

<事例a>麻生太郎財務大臣 2018/05/04

記者:テレビ朝日側が徹底調査を求めるというような文書を出したことについての見解と、与党の中からの「処分が遅きに失したのではないか」という声についてはどうか。

麻生太郎財務大臣:テレビ朝日は被害者保護を重視する姿勢をとられている。「誰がしたか」「これはパワハラではないか」とか、いろいろな説が言われていることは自分自身で知っているのだろうが、今回問題となった話は、1対1の会食なので、そのやりとりについて、財務省だけで詳細を把握していくのは不可能だ。いくら正確であっても偏った調査ではないかと言われる。被害者保護の観点から時間をかけるのは問題があると考えた。福田前次官の一連の行為によって、財務省なり国会の審議等に影響を与えたことに関して彼は「誠に申し訳ありません」と言って退官をしたのが事実なので、その意味で処分をした。何回も言うが、セクハラ罪という罪はない。殺人とか傷害とは違う。訴えられない限りは親告罪だ。少なくとも向こうにまだ言われていない。そこから先は本人の話だ。したがって処分にあたっては、少なくとも福田前次官の人権等も考えなければならない。そうすると福田前次官と向こうの人と両方やらないと公平さを欠くことになるので、今回のような対応をとらせていただいた。

<事例b>衆・財政金融委員会 2018/05/11

尾辻かな子議員(立憲民主党):それだけじゃないんですよ。(麻生太郎財務大臣の発言には)更にまたひどい発言があるんですね。「セクハラという罪はない」。これは、今でもセクハラという罪はないというふうに思われていますか。

麻生太郎財務大臣セクハラ罪はない。間違えないでくださいね、ここのところは。大事なところですよ。「セクハラという罪はない」なんて言ったことはありませんからね。間違えないでください。セクハラ罪はない。悪意で切れば「セクハラ、罪はない」と読めますからね。アサ・ナマタロウみたいな読み方ですよ。麻生太郎とは言わずにアサ・ナマタロウと言われたことがあるから。切り方の問題ですよ。セクハラ罪はないということを申し上げております。これは刑事罰として存在しておりませんから。これは訴える、訴えられる、そういったもので、これは両方で話し合われるということを正確に、法律用語としては正しく申し上げたんですけれども、悪意を持って途中で切られると「セクハラという罪はない」というふうに言いかえておられますから。セクハラ罪はないと一つのセンテンスで読んでください。

財務省セクハラ騒動における麻生大臣の「セクハラ罪という罪はない」という発言は、テレビのワイドショーやニュースショーによって大問題化され、最後には国会で議論されるに至りました。

麻生大臣の「セクハラ罪という罪はない」の意味は、明らかに「セクハラ罪という罪」という同格で表現した刑事罰について「ない」という表現でその存在を否定するものでした。これは会見の文脈からも明らかです。しかしながら、麻生大臣の発言を是が非でも貶めたい尾辻議員は、この表現を「セクハラによる罪業という罪業はない」、すなわち「セクハラは罪(罪業)ではない」と曲解して麻生大臣を糾弾しました。これは、複数の解釈が可能な構文につけこみ前提を誤解釈することで無効な結論を導く文法曖昧の誤謬です。ちなみに、セクシュアル・ハラスメントが刑罰法令に該当する場合には、強制わいせつ等の罪として問われるので「セクハラは罪ではない」とする一般的解釈も不合理です。

さて、このような苦しい解釈であるにもかかわらず、マスメディアはこの発言に飛びつき、尾辻議員と同様の曲解を根拠に徹底的に麻生大臣を非難しました。

<事例c>テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」 2018/05/07

玉川徹氏:セクハラというのが世界では重く受け止められているという話としてこのニュース(選考メンバーの夫のセクハラ疑惑を受けたスウェーデン・アカデミーによるノーベル文学賞選考の1年見送り)を受け取った。それに対して日本はどうなっているのかと言ったら、大臣が、財務省がセクハラを認めたのに「セクハラ罪という罪はない」と言ってしまうような彼我の差をこのニュースで物凄く感じる。

この事案において、スウェーデン・アカデミーが文学賞の選考を見送った直接原因は、セクハラを契機に明らかになった情報漏えい疑惑などのいくつかの重大な疑惑に対するアカデミーの対応をとりまくメンバー間の対立です。あくまでセクハラは問題の間接原因であり、必ずしも最大の争点ではありません。そんな中で玉川氏は、麻生大臣の「セクハラ罪という罪はない」という発言を根拠に、あたかも麻生大臣のセクハラに対する意識が低いかのような印象を植え付けています。

ここで、「セクハラ罪という罪はない」という発言をする人物はセクハラ意識が低いのかということですが、それはこの番組自体によって否定されています。この2週間程前の放送で、セクハラを「犯罪」と理解していた長嶋一茂氏に対し、玉川氏、羽鳥慎一氏、山口真由弁護士が次のように否定しています。

<事例d>テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」 2018/04/20

長嶋一茂氏:犯罪している人(財務省の事務次官)を守ってどうするのって思うけどね。

玉川徹氏:犯罪ではない。少なくとも犯罪とまでは。今セクハラって言えないので。刑法犯ではないので。

羽鳥慎一氏:セクハラって文言を書いた法律はない。

長嶋一茂氏:それだったら「定義は何なの」ということになる。

羽鳥慎一氏:その定義によって民法と刑法のいろんな法律を当てはめて対処している。セクハラと言うものを書いた法律はない。

山口真由氏:そうですね。刑事罰上の強制わいせつなどに当たらない限り刑法違反にはならない。

玉川徹氏:公然わいせつとか可能性はあるので今の段階で犯罪ということにはならない。

このように「セクハラ罪という罪はない」ことを長嶋氏に対して理路整然と説明していた玉川氏が、その2週間後に「セクハラ罪という罪はない」という発言を根拠に麻生大臣を批判するのは、耳を疑いたくなるほどの完璧なダブルスタンダードと言えます。テレビ朝日の放送番組基準には「テレビ朝日は、社会的責任と公共的使命を重んじ、不偏不党の立場に立って、真実を伝え、公正な姿勢を貫くとともに、放送の品位を高め、表現の自由を堅持する」とありますが、玉川氏の麻生大臣批判は「公正な姿勢を貫く」という点でテレビ朝日の放送番組基準に違反しています。

麻生大臣の「セクハラ罪という罪はない」という言説については、テレビ朝日『報道ステーション』の後藤謙次氏も強く批判しました。

<事例e>テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」 2018/05/07

富川アナ:麻生大臣が「セクハラ罪という罪はない」という発言をしました。

後藤謙次氏:これも呆れる。セクハラが重大な人権侵害だという認識が全くない。今年はノーベル文学賞がセクハラ問題に絡んで発表が延期される。国際的な大きな潮流から凄くかけ離れた発言だ。しかも財務省は福田前次官が「認定を認めてない」「セクハラの事実がない」と言っているにも拘わらず処分をした。それは連休後にこれを引き摺らないという財務省の意思だったが、そのトップである麻生副総理が自ら火をつけるという意味では、副総理あるいは財務省のトップという自覚がないと言われても仕方がない。

「セクハラ罪という罪はないと考えている人物は、セクハラが重大な人権侵害だという認識が全くない」という後藤氏の言説が真であるとすると、「セクハラ罪という罪はない」という事実を当然知っている日本のすべての法律家は、セクハラが重大な人権侵害だという認識が全くないことになってしまいます。「セクハラ罪という罪はない」という知識は、国民が「セクハラ」の刑法上の扱いを理解する上で極めて重要なポイントでもあります。正しい知識を語っている麻生大臣に対して「呆れる」「副総理あるいは財務省のトップという自覚がないと言われても仕方がない」と批判をする後藤氏は、テレビ番組で誤った発言をしているという自覚がないと言われても仕方がありません。

日本のマスメディアは極めて異常であり、このような自明な解釈に対して、無意味な追及の手を緩めませんでした。ある記者が再び財務大臣会見でこの話を蒸し返しました。

<事例f>麻生太郎財務大臣 2018/05/08

記者:麻生大臣が発言されたセクハラ罪という罪はないという発言が批判が集まっていますが、これについて、声が上がっていますが。

麻生大臣:セクハラ罪という罪はないと思いますが。

記者:それだけですか。

麻生大臣:セクハラ罪という罪があるかと言うから、ないと思いますよ。

記者:批判を浴びていることについてはどういった御見解でしょうか。

麻生大臣:セクハラ罪という罪があると思っておられる方の発言ですか。よくわかりませんけれども、セクハラ罪という罪は、いわゆる罪としては、これは親告罪であって、意味わかりますか。わからない人に説明しても意味がないから、セクハラ罪という罪はありませんからというので、これは親告をされたことによって、訴えられているという話も伺っていませんから、私共としてはセクハラ罪という罪はないということなのであって、そういうことを申し上げた、事実を申し上げているだけです。

記者:罪はないという言い方は問題ないという認識で言ったわけではないということですか。

麻生大臣:当たり前です。

記者:欧米各国では逆に言うと、先進国ではセクハラ禁止が法律にそもそもあります。日本にはこれはないということで、国連が禁止規定をつくるよう勧告されているという、こういう状況があるのですね。今回のようなことを受けまして、あのような発言のやりとりがセクハラ罪ということがないことによって罪にはならないということ自体、大臣としては問題である、今後その。

麻生大臣:罪にはならないと言うけれども、訴えられない限りという話ですから。そこのところは間違えないでください。

マスメディアは、コンテクストを無視して「セクハラ罪という罪はない」という発言を「セクハラは罪ではない」という発言に言い換え、大衆をミスリードしました。度重なる麻生大臣の丁寧な説明にも拘らず、マスメディアはその説明を理解しようともせず、一方的に誤解釈してその点を批判するストローマン論証 straw manを繰り返しました。これでは議論が成立しません。日本のマスメディアはターゲットとする政治家を貶めるためには骨の髄まで吸い尽くすのです。