claudio-schwarz-purzlbaum-jDc22NNImUM-unsplash
メディア・リテラシーを正しく理解するにあたっては民主主義国家に住む国民である私たちにとってメディアとはいったいどのような「存在」でどのような「役割」をもつのかを論理的に理解しておくことが前提となります。ここでは、民主主義社会における国民と政府とメディアの関係を模式的に説明したいと思います。

国民と民主政治

【政治 politics】とは、国や地方自治体などの特定の集団において、【治者 the ruler】【被治者 the ruled】を統治するために、立法・行政・司法などの意思決定をする行為です。一般に政治という行為は、特定の地域(境界で画された空間的領域)の居住者によって構成される政治組織によって実行されます。例えば、国境で画された領域の居住者(国民)によって構成される【国家 state】や、県境で画された領域の居住者(県民)によって構成される【県 prefecture】などがこれにあたります(もちろん、構成員の資格は各集団によって規定されており、文字通りの「居住者」ではない構成員も存在します)。

政治のポイントとなるのは「治者」と「被治者」の存在です。誰が治者になるかは、政治の体制によって変わります。【絶対主義 absolutism】【専制主義 despotism】に基づく絶対君主制国家の場合には君主(国王)、封建国家の場合には諸侯といった特定の個人が治者となり、【全体主義 totalitarianism】に基づく社会主義国家・共産主義国家の場合には特定の政党、軍事国家の場合には軍が治者となります。一方、被治者となるのは、いずれも政治権力が及ぶ地域の居住者である【住民 resident】です。なお、自然状態の【無政府主義 anarchism】に基づく社会でも、現実には力関係で形成されるミクロな治者と被治者が存在することになります。

ここで【民主主義 democracy】の国家について治者と被治者を考えると、治者は国家の主権者である【市民 citizen】であり、被治者は主権者が選択した政治に支配される住民ということになります。但し、治者である市民と被治者である住民は異なる立場をとる同一の存在です。民主主義国家において、国民は治者でもあり被治者でもあるのです。カール・シュミットは、民主主義国家で治者と被治者が一致することを【治者と被治者の自同性 the identity of ruler and ruled】と呼びました。

この概念でエイブラハム・リンカーンの有名なゲティスバーグ演説における【人民の人民による人民のための政治 government of the people, by the people, for the people】という言葉を正しく解釈すれば「国民の市民による住民のための政治 government of the nations, by the citizens, for the residents」となります。リンカーンは、国家という概念の主体である「国民」が、「市民」という治者と「住民」という被治者の立場を兼ねて統治する民主主義の原則を宣言したのです。

民主政治とメディア

民主主義国家の市民が国家を統治するにあたって、直接的に意思決定をするのは必ずしも効果的でも効率的でもありません。国家の統治には専門性が必要であり、市民の意見集約にも適正なスピードが必要です。このため近代国家では、市民が直接的に国家を統治する【直接民主主義 direct democracy】ではなく、市民が付託した【代表 representative】が統治する【間接民主主義 indirect democracy】が採用されています。間接民主主義は、市民の【自由主義 liberalism】を一部制約する「代表に付託」というプロセスと引き換えに効率性を得ているのです。

間接民主主義国家における政治の実施主体である【政府 government】は、市民の代表が意思決定を行う立法・行政・司法から構成されます。日本の場合には、市民(憲法上の名義は「国民」)が立法機関を構成する国会議員を選挙し、国会議員が立法機関の長である衆参両議長と行政機関の長である内閣総理大臣を指名し、内閣総理大臣が組織する内閣が司法機関の長である最高裁判所長官を指名します(但し、日本では行政のみが慣用的に「政府」と呼ばれています)。

市民の代表は、政治を負託された存在であるため、現行法の下で自由な意思に基づき自分の考えを主張することができますが、その正当性には【被治者の同意 consent of the governed】が必要となります。被治者である住民は、治者である市民の代表が、住民が生まれながらに持つ【自然権 natural rights】を侵していないか、住民のための改革を怠る【モラル・ハザード moral hazard】や特定の既得権益を守る【レント・シーキング rent seeking】のような背信行為を犯していないか等について、常に十分に監視する必要が生じます。

しかしながら、住民は各自の生活に時間がとられるため、市民の代表を常に十分に監視することは困難です。このため住民には、住民本位に市民の代表者を監視する【代理人 agent】の存在が必要になります。この代理人こそが【民主主義の番人 watchdog of democracy】と呼ばれる【ジャーナリズム journalism】を展開する【メディア media】なのです(図-1)。

図-1 民主主義における国民・政府・メディアの関係

ここで、重要ななのは、市民の「代表」が選挙によって市民から負託を受けて市民の代わりに意思決定を行う存在である一方、住民の「代理人」は住民から対価を受けて住民の代わりに住民が必要とする行為を代行する存在であることです。市民の代表の背後に存在するのは市民の【権力 power】ですが、住民の代理人の背後に存在するのは住民の【権利 right】であり、権力は存在しません。住民から負託を得ていない住民の代理人は、市民の代表に対して主観的に意見したり要請したりする存在ではありません。住民の代理人の役割は、住民への客観的な情報の提供であり、市民の代表に対して権力を行使するのは、住民の別人格である市民の役割です。

住民の代理人としてのメディアには、公設代理人である【公共メディア public media】と私設代理人である【商業メディア commercial media】があります。また、市民の代表が運営するメディアとして【国営メディア state media】があります。次回は、それぞれのメディアの役割と問題点を指摘したいと思います。