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Fallacy of composition
部分に当てはまることは全体にも当てはまると混同する
<説明>
「合成の誤謬」とは、【ミクロmicro】な【部分 part】の特徴を【マクロ macro】な【全体 whole】の特徴と混同して結論を導くものです。ミクロな部分の特徴がマクロな全体の特徴と乖離していることはよくあることですが、詭弁を使うマニピュレーターは、この混同につけこんで、前提を意図的に解釈することで自分にとって好都合な結論を導きます。
AはBの一部分である。
AはXという特徴を持つ。
したがって、BもXという特徴を持つ。
<例1>
水素(H)は濡れていない。
酸素(O)は濡れていない。
したがって、水(H2O)は濡れていない。
集合体の特徴は必ずしも部分の特徴とは一致しません。
<例2>
貯蓄をするのは合理的だ。国民みんなで貯蓄すれば社会は発展する。
節約することは合理的だ。国民みんなで節約すれば社会は発展する。
社会の構成員である個人(ミクロ)が可処分所得の一部を貯蓄に回した場合、その量だけ消費支出が減るため、社会全体(マクロ)ではその量だけ所得が減り、結果としてその量だけ貯蓄が減ることになります。この場合、社会全体の貯蓄に増減はありません。
ここで、一人の個人が貯蓄という行動を取ったとしても社会全体には殆ど影響がありませんが、貯蓄という行動が社会全体に広がった場合には、多くの個人の消費と所得が落ち込むことで社会全体の景気が弱くなるという現象が発生します。社会全体の景気が弱くなると各個人のセンチメントは冷えこみ、リスク回避を選好する状態となります。ここに社会全体の需要の低下・商品価格の低下といった経済の悪循環が生じるのです。
このように個人(ミクロ)が合理的な行動を取ったとしても、社会全体(マクロ)では必ずしも個人が意図した結果が得られるとは限りません。このような現象がなぜ発生するかについては、ミクロの行動がマクロの結果に及ぼす影響を意思決定者が観測しにくいことによります。
例えば、マクロな商品価格に対して、ミクロな一個人の購入行動の影響は非常に小さく、各個人は価格を一定として捉える【プライス・テイカー price taker】として行動することになります。しかしながら、実際にはマクロな商品価格はミクロな個人の購入行動が積み重なって影響を与える需要と供給の関係によって決まります。つまり、ミクロな個人は集合体となってマクロな商品価格を決める【プライス・メイカー price maker】の一部なのです。アダムスミスは、このメカニズムを【見えざる手 invisible hand】と表現しました。日本の諺で言えば「塵も積もれば山となる」です。
<事例1>NHK受信料
<事例1>日本経済新聞 2020/06/25
NHKは、2019年度末のNHK放送受信料の推計世帯支払率を23日に発表した。全国ベースの推計世帯支払率は81.8パーセントで、前年度末の数値(81.2パーセント)に比べて0.6ポイント増とほぼ横ばいとなった。
ミクロとマクロの関係に起因する誤謬は、経済のコンテクストに特化されたものではありません。ミクロでは認識することが困難なメカニズムが存在するとき、このような「誤解」が発生するのです。NHK受信料の推計世帯支払率(受信料を支払った世帯の数/契約している世帯の数)の問題に代表されるような【社会的ジレンマ social dilemma】は基本的に合成の誤謬に起因しています。
ここで、社会的ジレンマとは、社会集団の構成員である個人が、ある事業に対して協力・非協力を選択でき、かつ一個人にとっては非協力の選択の方が利益が大きく、かつ構成員全員が非協力を選択すると全員協力の選択の場合よりも個人の利益が低くなるというものです。
NHKは住民からの受信契約に伴う受信料収入で運営を行っている公共メディアです。NHKと契約している一個人がNHKに受信料を支払わない選択を行ってもNHKは公共放送事業を継続可能ですが、このような選択が多くの住民に拡がれば、事業を継続できなくなります。これは住民のピュアな代理人として政府を監視する情報や公益に適う情報を提供するサービスを放棄することになり、住民全体にとって大きな不利益になります。
勿論、NHKが現在行っている全ての事業に公益性があるかと言えば、それは大きな疑問であり、特にバラエティ番組の放送などは、あまねく国民に共通する公共の福祉を目的とするとは言い難いことは明らかです。コンテンツを中心とするメディア革命が進行中の現在、NHK改革は必要不可欠です。
なお、NHKの未契約者に受信料の支払い義務はありませんが、未契約者がNHKを受信している場合、NHKが強制的な契約締結の権利(民法414条2項但書)を行使すると契約締結義務が発生します。
<事例2>再生可能エネルギー
<事例2>時事通信 2021/04/17
小泉進次郎環境相は16日、時事通信のインタビューに応じ、政府の2030年度の温室効果ガス削減目標(現行は13年度比26%減)について「間違いなく今より強化されるのは目に見えている」と述べ、引き上げへの意欲を示した。目標達成で「一番のカギは再生可能エネルギーだ」と強調。住宅への太陽光パネル設置義務化を「視野に入れて考えるべきだ」と訴えた。
個別の設置者のミクロな視点から見ると、太陽光発電は、自然界に無尽蔵に存在して温室効果ガスを排出しない【再生可能エネルギー renewable energy】を利用した理想の分散型発電方式と言えます。
しかしながら、電力の需給バランスの確保に責任を持つ電力会社のマクロな視点から見ると、太陽光発電は天候によって発電量が大きく変動する供給安定性が低い発電方式であり、高価な蓄電装置が普及していない現状では、火力発電など供給調整能力がある発電方式の電源を常時バックアップ電源として確保する必要があるという大きな短所をもつ発電方式と言えます。
ミクロな個人が太陽光発電を採用して温室効果ガスの削減に努めることは合理的ですが、マクロにはその変動量を瞬時に調整する化石燃料によるバックアップ電源が必要であり、温室効果ガスの削減も限定的です。しかも太陽光発電を増やすほどバックアップ電源の稼働率が低下するため、限界コストは高まっていきます。
温室効果ガスの削減に最も効果的なのは原発の稼働です。ちなみに、原発の代わりに太陽光発電でベースロード電源を確保しようとする小泉氏の考え方は、資源エネルギー庁の調査会で数値的に否定されています。日照のない夜間は勿論のこと、昼間に日照が途絶えれば火力発電の炊き増しによって温室効果ガスが増えるからです。
<事例3>ゼロコロナ政策
<事例3>朝日新聞 2021/08/09
東京オリンピック(五輪)が8日閉幕した。17日に及んだ大会期間中、新型コロナウイルスの国内の新規感染者は17万人超増え、医療を圧迫した。五輪選手団と一般の人たちを分離した「バブル方式」。その内側と外側で何が起きていたのか。「陽性率の低さは安全性が確保された一つのエビデンス(証拠)」7日にあった東京五輪大会組織委員会の記者会見。中村英正・運営統括は、選手や大会関係者らに延べ約60万件の検査をし、陽性者は138人(6日時点)、陽性率は0・02%だったことを挙げて、そう述べた。組織委によると、7月1日以降、バブル内外で資格認定証を持つ430人(8日現在)が陽性と判明した。内訳は組織委の業務委託先の業者が236人で最も多く、大会関係者が109人、選手が29人、メディアが25人、ボランティアが21人、組織委職員が10人だったが、21棟の居住棟にベッド1万8千床がある選手村の居住者に限ると感染者は32人(8日現在)。医療機関に入院したのは3人だった。来日しながら陽性判定を受けたり、チームメートが陽性となったりするなどして出場できなかった海外選手が19人いた。
東京五輪における検査は1人あたり1日1件なので、60万件の検査を17日で行ったとすれば、60万件/17日/人≒35300人を対象に検査を行ったことになります。この間に138人の陽性者が出たということは、17日間の延べの陽性率は138/35300=0.391%ということになります。一方、1億2千5百万人の人口の日本において17日間で17万人の新規陽性者が出たということは、17日間の延べの陽性率は17万/1億2千5百万人≒0.136%ということになります。つまり、東京五輪のバブル内の方がバブル外よりも数値上では陽性者が3倍多かったことになります。東京五輪に参加する各国の選手・関係者は、当然のことながら失格者を出さないために感染対策には気を緩めることなく十分に注意していたものと推察されますが、実際には日本国内よりも高い率で陽性者が出てしまったのです。
このことから何が言えるかと言えば、外界との接触を閉ざして検査を1日1回全員に行ったところで、マクロな陽性率は一般の環境とオーダー的に変わらないということです。つまり、感染現象は偶発的に発生し、ロックダウンや全員検査&隔離というゼロコロナ対策にはゼロコロナを実現するための抑止効果が期待できないことを示しています。
一方、2021年の盆明けに人流が増えたり、9月に学校が再開したりするなど、個人の活動が活性化してもコロナの実効再生産数は減少を続け、極めて低いレベルに到達し、10月までには陽性者数も激減しました。ワクチン接種率の向上以外は何もせずに日本ではゼロコロナが実現されたのです。
このように【複雑系 complex system】の社会では、メカニズム不明のままミクロとマクロの関係が異なることは少なくありません。重要なことは、経験データを思い込みなしに分析することで帰納的に解を得ることです。マクロな現象が【確率論的 srochastic】に生起した一つの偶然の現象=【組織化されていない複雑性 disorganized complexity】なのか、【決定論的 deterministic】に生起した必然の現象=【組織化された複雑性 organized complexity】なのかを見極めることです。