メディア・リテラシーの基本概念

論理・倫理・審美

ここまでは、私たちを操作するマニピュレーターが論理的判断につけこんだ【情報操作 information manipulation】について説明してきましたが、今回はマニピュレーターが倫理的判断および審美的判断につけこむ【印象操作 impressive manipulation】について説明したいと思います。

真善美

人間の価値観を表す概念に【真 truth】【善 goodness】【美 beauty】があります。これらは【論理学 logic】における真・偽、【倫理学 ethics】における善・悪、【美学 aesthetics】における美・醜という対立概念のうちポジティヴなものであり、一般的に人間はこれらを選好します。

真・善・美は、カント哲学の名著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のそれぞれのテーマとなっており、哲学の大きな関心事の一つです。ただ、その哲学的な考察は別の機会に譲り、ここではあくまで現象界におけるメディア・リテラシーの観点から説明したいと思います。

真・善・美はそれぞれ独立した概念であり、それぞれに相関関係は必ずしも存在しません。例えば、次のような言説に対して、誰もが反証を示すことができるものと考えます。

  • 真を唱える人は、すべて善人で、すべて美人である
  • 偽を唱える人は、すべて悪人で、すべて醜人である
  • 善人は、すべて真を唱える人で、すべて美人である
  • 悪人は、すべて偽を唱える人で、すべて醜人である
  • 美人は、すべて善人で、すべて真を唱える人である
  • 醜人は、すべて悪人で、すべて偽を唱える人である

ただ、マニピュレーターは、真・善・美にあたかも相関関係があるかのように偽って私たちを印象操作するのです。

非常に興味深いことに、人間の脳において、真偽を見分ける論理的思考・善悪を見分ける倫理的思考・美醜を見分ける審美的思考を行う部位は互いに近接していることが知られています。ここに思考の混同が生じやすいのです。

  • 論理的思考:眼窩前頭皮質(左脳)
  • 倫理的思考(義務感):梁下回・島皮質前部
  • 審美的思考:眼窩前頭皮質・内側前頭前皮質

加えて、現代人の私たちの頭の中には真・善・美の相関性が既に刻み込まれています。世界の子どもたちを魅了するアニメやドラマのヒーローやヒロインは真実を唱える正義の味方でカッコよい一方、その敵は虚偽を唱える悪の化身で醜いというキャラクター設定になっています。この幼少期に刻み込まれたステレオタイプの認識は【発達心理学 developmental psychology】における【社会的学習理論 social learning theory】と呼ばれる学習過程に組み込まれ、個人のパーソナリティに反映されています。私たちは、真・善・美には相関性があり、同時に備わるものであるという先入観を持っているのです。

子どもだけではありません。高齢者が観る時代劇にも必ず悪人面にメイクした悪代官と越後屋が登場し、善良な町民から搾取する悪だくみを展開します。そこに正義のヒーローがカッコよく登場して正論を唱えるというのはステレオタイプな展開です。

そして、現在の日本でこのようなステレオタイプの展開を商売しているのがワイドショーです。ワイドショーの司会者とコメンテーターは、自分たちこそ弱きを助け強きを挫く道徳の権化であるかのように振舞い、自分たちは弱いものの味方という勝手な設定をした上で、主権者の国民から権力を負託された国民の代表や行政を悪者に仕立ててこき下ろすというものです。質が悪いのは、これがフィクションではなく、現実社会を歪めて展開されているという点です。

<事例a>『羽鳥慎一モーニングショー』2020/04/27

玉川徹氏:山梨大学の学長が日本の検査レベルは途上国並みだと。土日に下がることが日本の検査体制が途上国並みだという証左だと。国際標準から言ってどうなのか。(中略)GWで直接命が不安だ。週末に検査の数が減っていることが繰り返されているとすると、2日から6日まで休みのわけです。そうするとこの間、検査がさらに受けられないことになるとすると、GW明けに重症者や死者が物凄く増える可能性があります。何の医療の手も受けられないまま経過していけばその間、命は危なくなる可能性は高いわけで生き死にに関わるのが心配です。GW、同じ自治体の中には職員がいるわけで、職員の中から交代で助けを出すとか、保健所を助けなければ、人の命も助けられないということです。

<事例b>『羽鳥慎一モーニングショー』2020/04/28

羽鳥慎一氏:緊急事態宣言から3週間、東京では1カ月ぶりに1日の感染者が50人を下回りました。昨日は39人ということになりました。

玉川徹氏:スタッフに確認しましたが、39という件数は全部民間の検査の件数なんです。実は。土日は行政機関が休みになるので39件というのは全部民間なんです。平日は行政検査の方が多いんです。行政検査が土日休みになって、結果として民間で検査したものの中の感染者が39件ということです。そうなるとGWどうなるんだろうと。GWにたぶん行政は休みますよ。そうすると民間だけで行く。民間がいまだに増えていない段階では、GWに入ると30という数字がずっと続いていく可能性がありますよよね。(中略)それで本当に大丈夫なのか。下がっていて解除と言う話になったら大変だなと。

岡田晴恵氏:全部民間だというのは私も聞き及んでおりますけれど。

玉川氏:行政やっていないの確認取れています。

<事例c>『羽鳥慎一モーニングショー』2020/04/29

玉川徹氏:昨日の放送の中で、月曜日の都内の感染者数39名すべてが民間の検査機関によるものと私は伝えました。さらに土日に関して行政の検査機関は休んでいたと伝えました。しかし正しくは39名の中に行政機関の検査によるものが多数含まれていたことがわかりました。そして土日に関しても行政の検査機関は休んでいなかったこともわかりました。

玉川氏のコメントは命を振りかざして日本の行政機関の人格を道徳的に貶めてその行動を否定するものでした。ただ現実は玉川氏のコメントとは異なり、土日に検査数が少なくなるのがむしろ国際標準です。特に民間企業は慈善事業ではないので経済合理性に基づき休暇をとるのが普通です。当事者に指摘されたのか、結局デマがバレて玉川氏は謝罪するに至りました。玉川氏は、土日も働いている都庁関係者、保健所、検査機関、検体を採取する医療機関に多大なる迷惑をかけると同時に、命に直結する検査に対して間違ったコメントをしました。玉川氏のデマは報道の暴力に他なりません。不確かな情報ソースを根拠に、土日返上で用務にあたっていた行政の人格(善悪)と行動(真偽)を【陰謀論 conspiracy theory】によって同時に貶めたのです。

倫理と道徳

【倫理 ethics】と類似した概念に【道徳 moral】があります。これらの定義にはさまざまなものが存在しますが、大方の見解によれば両者の違いは次の通りです。

  • 道徳:社会における善悪の規範(社会に依存する)
  • 倫理:普遍性をもつ善悪の規範(社会に依存しない)

ここで【規範 norm】とは、「すべきである」「すべきでない」と記述される【規範命題 norm proposition】を定めたルールです。ちなみに「である」「でない」は【事実命題 ​factual proposition】と呼ばれます。

道徳とは、特定の社会集団が持つ社会通念に合致するよう定められた「すべきである」「すべきでない」という規範命題から構成される規則であり、例えば「世界の道徳」「日本の道徳」「米国の道徳」「中国の道徳」「宗教集団の道徳」「企業の道徳」などがあります。そのルールは各社会集団の内部で有効であり、集団のサイズが大きくなればなるほど構成員の多様性が大きくなるため、規範の自由度が高くなります。逆に特定の思想に凝り固まったカルト集団などでは規範の自由度が低く、規範に異様なルールが存在することも少なくありません。

一方、倫理とは、社会と無関係に純粋に哲学的考察に基づき導かれる「すべきである」「すべきでない」という規範命題から構成される規則です。例えば「医療の道徳」が医療業界の内部に有効な規範であるのに対し、「医療の倫理」とは、医療に関する普遍的な規範、つまり医療業界の内部にも医療業界の外部にいる患者や一般住民にも有効な規範ということになります。

ところで、先ほどの真・善・美の命題の反証を考える時に心の中で何かスッキリしない葛藤を覚えた人も少なくないと思います。おそらくその原因の多くは、真偽は客観的に判断できるのに、善悪と美醜は主観的にしか判断できないことにあると考えます。実際、倫理的な価値観や美的な価値観は個人の主観によって異なるので客観的な正解はありません。ここにマニピュレーターが印象操作を行う余地ができるのです。

倫理的判断は、個人が持つ倫理規範(道徳規範)に基づいて行われます。哲学者が提唱する代表的な倫理規範(道徳規範)としては【義務論 deontology】【帰結主義 consequentialism】があります。

義務論は、カントによって提唱された倫理規範であり、「自分の意思により、自分の行為が普遍的法則となるよう行為せよ」とするものです。つまり、義務である倫理規範は「もし~ならば~すべきである」「もし~ならば~すべきでない」という形式を持つ【仮言命法 hypothetical imperative】ではなく、無条件に「~すべきである」「~すべきでない」という形式をもつ【定言命法 categorical imperative】で表現されます。例えば「もし人に信用されたければ、嘘をつくべきでない」は仮言命法であり、「信用されたい」が「嘘をつくべきでない」の目的になってしまい、普遍性が失われます。これは義務とは言えず、条件なしの「嘘をつくべきでない」が義務となります。

一方、帰結主義は、「行為によって生じる結果を考慮して行為せよ」とするものです。ちなみに「行為によって生じる幸福を最大化、あるいは不幸を最小化するよう行為せよ」とする帰結主義の一つが【功利主義 utilitarianism】です。帰結主義の議論においては、快楽・行楽といった最大化の対象を数量化する必要があります。

このように倫理的判断を突き詰めれば、専門性を必要とする十分難解なものと言えます。その一方で倫理的判断は突き詰めなれば誰でも容易にできるものです。イギリス経験論の代表的な哲学者であるデイヴィッド・ヒューム David Humeは、「である」「でない」という事実命題から「すべきである」「すべきでない」という規範命題を導くことはできないとする【ヒュームの法則 Hume’s law】という原理を提唱しました。規範命題は事実に基づくことなく個人の倫理的価値観を基に主張することができるのです。

あえて言えば、日本社会では倫理的判断が乱用されています。論理的判断が必要な場面において、言説に対する論理的議論を回避し、言説の論者の人格を倫理的に貶めてその言説を否定することで、自説を主張するという極めて非論理的な人格否定をはじめとする印象操作が巷に溢れています。

<例>
A:私は全身全霊でA案を提案します。
B:そんなこと言っているからあなたはダメなんですよ。私は絶対B案が良いと思う。
A:ふざけないで。B案こそ信じられない。あなたの態度はいつも醜い。
B:お返しします。あなたのような自己チューにはB案の良さがわからない。

日本においてこのような会話が氾濫している一つの大きな理由は、日本には「優れた行動の背景には人としての道(道徳)がある」とする精神性を美化して崇拝する文化があるためと考えられます。「武道」「柔道」「剣道」「弓道」「書道」「華道」「茶道」「神道」「仏道」「武士道」はもとより「野球道」「ラーメン道」「麻雀道」「サラリーマン道」「極道」など、なんでも「道」にしてはそれを美しい道徳してとらえ、その反証不可能な美しい道徳に反する行動を邪悪なものとして否定するのです。

<事例>参・予算委員会 2021/01/27

蓮舫議員:この二十九人の命、どれだけ無念だったでしょうかね。総理、その重み、分かりますか。

菅義偉内閣総理大臣:そこは大変申し訳ない思いであります。

蓮舫議員:もう少し言葉ありませんか。

菅総理:心から、申し上げましたように、大変申し訳ない思いであります。

蓮舫議員:そんな答弁だから言葉が伝わらないんですよ。そんなメッセージだから国民に危機感が伝わらないんですよ。あなたには総理としての自覚や責任感、それを言葉で伝えようとする、そういう思いはあるんですか。

菅総理:少し失礼じゃないでしょうか。

このような倫理的判断の乱用が、国民の議論の場である国会において極めて普通に行われていることは日本社会が抱える大問題と言えます。

たとえ論理的な行為も、「私は人として良くない行為であると思う」「私は人として美しくない行為であると思う」といった反証不可能な倫理的評価と美的評価を恣意的に用いれば、いとも簡単に有無を言わさず否定することができるのです。ワイドショーのコメンテーターが展開しているのは、まさにこの方法論に基づく恣意的な評価であり、番組制作者の意向によって自由に印象操作することが可能なのです。

<事例>フジテレビ『バイキングMORE』 2021/06/14

坂上忍氏:もう有観客なんでしょ。

鈴木哲夫氏:そういう流れですよね。時間切れだからやるしかない。時間切れだから観客を入れるしかない。僕らが持っている不信感の一つはプロセスなんですよね。気がついたら流れができているというのだけはやめてほしい。

坂上忍氏:でもそういう作戦でしょ。例えば、飲食が閉めといてねとか。テレワーク推奨してるんだよ。五輪はやるけど、有観客にするけど、国民の皆様は我慢をするところは我慢をしてくれないということでしょ。

アンミカ:それが言えないから引っ張ってギリギリで無観客にすると言う布石を皆さんなんとなく感じてもやもやしてるんじゃない。

坂上氏:菅総理とか小池都知事とか責任を負いたくない。なんとなく責任を押し付けているようなふわっとした感覚で始まっていく気がするんですけど。

野々村真氏:五輪があるかないかの段階でも我々は不安の塊でしかない中で、有観客だったら不安はどれだけ膨らむのか。

興味深いことに、五輪の開催と有観客の可否という論点に関して、彼らは全く論理的に議論することなく、開催者の倫理的評価に終始しています。しかも、将来を勝手かつ安易に憶測してそれを事実認定した上で人格攻撃を行うというデタラメ極まりない印象操作を展開しています。ちなみにこの前日にフジテレビは、緊急事態宣言の東京ドームに熱気溢れる1万人の大観客を集めた格闘技イヴェント「RIZIN」を放映しました。もちろん、彼らはこのことについて一切触れません。彼らにとってスポーツ・イヴェントの開催と有観客の可否など実際にはどうでもよく、商売のための番組ネタとして、五輪を否定しているに過ぎないことがわかります。

以上のように、倫理的判断と美的判断を振りかざすことに論理的なスキルは一切必要なく、好き放題に特定の個人に善悪を割り当てることができます。しかも反証可能性がないので論理的に反証されることはなく、ゼロリスクで道徳的優位を獲得して自分を高潔な人間に見せることができるのです。ヤフコメやツイッターで展開される特定の人物に対する非難の多くも、倫理を振りかざした単なる人格攻撃に過ぎません。論理的スキルが皆無な彼らにとって「誰かを悪くしたがる病」「自分だけ正義の味方病」は【承認欲求 desire for recognition】を満たすための涙ぐましいワンパターン芸なのです。

なお、規範命題を大前提とすれば、次のような【実践的三段論法 practical syllogism】によって論理的判断を行うことも可能です。

  • 大前提:行為Aをすべきだ(規範命題)
  • 小前提:行為Bは行為Aの一手段である(事実命題)
  • 結 論:行為Bをすべきだ(規範命題)

ただ、いずれにしてもこの論証のポイントは、大前提となる規範命題の真偽であり、これは個人の倫理的判断に依存するため、結論に客観性を持たせることは困難なのです。

倫理の暴走

政治家・マスメディア・活動家の中には、倫理的判断と審美的判断を乱用しているうちに、自分は倫理的・審美的に優れていると勘違いし、歪んだ【個性 individuality】が形成されることがしばしばあります。このよう勘違いは、中国・韓国・北朝鮮といった東アジア諸国でしばしば発生し、日本がその倫理攻撃・審美攻撃のターゲットになることも少なくありません。ここでは、韓国の日本に対する倫理攻撃について考えてみたいと思います。

人間の個性は【キャラクター character】【パーソナリティ personality】【テンパラメント temperament】という3つの心理学的概念によって記述されます。キャラクターは遺伝などによって先天的に与えられる個性(性質)、パーソナリティは個人が置かれた環境によって後天的に獲得される個性(性格)、そしてテンパラメントは外部からの刺激に反応する、先天的に与えられる個性(気質)です。以下「韓国国民」で構成される「韓国社会」の個性をこれらの概念を用いて分析していきます。ここで「社会」の個性は【集団思考 groupthink】によって【極性化 group polarization】することがあり、構成員個人の個性とは必ずしも一致しないことに留意が必要です。

まず、韓国社会のキャラクターについて考えてみます。一般に、それぞれの国には固有の歴史があり、その長期的環境において生存するために有利な特性がキャラクターとして社会に優勢に根付いていきます。韓国の場合は、不幸にも中国・モンゴル・ロシアといった大陸の大国に近接する小国として劣等感を感じる絶望的な環境を長期にわたって強いられました。このような環境においてしばしば醸成されるのが【ルサンチマン ressentiment】の感情です。人間には、権力者は悪の存在であり権力者に対峙する者は善の存在であると断定することで道徳的に優位に立って権力者を不合理に見下す本能が存在します。ルサンチマンとは、この本能の原動力となる妬み・憤慨の感情のことです。

社会がルサンチマンの感情に侵されると、権力者よりも高潔な精神を持っている自分でありたいという【自己実現 self-actualization】が社会の行動原理となります。韓国の「恨の文化」の根源はここにあると考えられます。加えて、隣国との圧倒的な実力差によって生じる強い劣等感は、韓国に恥をかくことを恐れるメンタリティを形成したものと考えられます。そしてこの反動として、誇大妄想的に自己を演じるようになり、結果的に【自己肯定 self-affirmation】あるいは【自尊 self-esteem】が社会の行動原理となります。韓国の「ウリナラ文化」の根源はここにあると考えられます。

次に、韓国社会のパーソナリティについて考えてみます。後天的に獲得される個性であるパーソナリティは、個人が経験してきた環境に依存します。児童期から青年期にかけて異常な反日教育を受け、成年期からは異常な反日マスメディアの情報を受け取っている個々の韓国国民に【反日感情 anti-Japanese sentiment】が形成され、社会の行動原理となるのは自然な成り行きです。そして、韓国の反日教育の核となっているのが、ルサンチマンの感情を刺激して得られた不当な【被害者意識 victim playing】であるといえます。ほとんどの国民が戦後生まれであるにも拘らずいまだに「日本の戦争責任」を持ち出すのはこのためと考えられます。

反日が飛び交う情報環境下に置かれた韓国国民は「韓国は常に日本よりも高い倫理と能力を持っている」と認識しています。韓国メディアは、韓国と日本を比較する記事を毎日のようにリリースしています。スポーツのゲームの勝ち負けやノーベル賞の獲得に異常なまでにこだわるのもこのためです。韓国社会は日本社会よりも優れていることを認識したいのです。

最後に、韓国社会のテンパラメントについて考えてみます。韓国は古代から小中華思想によって中国の冊封体制に組み込まれていました。この根幹をなす【事大主義 sadaejuui】の精神により、強いものに対しては従い、弱い者に対しては見下すというテンパラメントを持っています。そしてこの行動原理を正当化する規範が「韓国儒教」であり、上位の者は道徳的に優れているので傲慢であることが許容され、下位の者は道徳的に劣っているので謙虚であることが強制されます。

これは単なる【ダブル・スタンダード double standard】に他なりませんが、韓国では、中国が上位で日本が下位という歴然とした認識が確立されています。中国からの理不尽な要求に対してはソフトに受容する一方で、日本には理不尽な要求を叩きつけ、日本からの反応があると、さらにハードに反撃するというのはこのためです。文在寅大統領が理不尽極まりない徴用工訴訟判決をふりかざし「日本は謙虚にならなければならない」と発言したり、日本による韓国のホワイト国除外はWTO違反とする一方で韓国による日本のホワイト国除外は正当な報復と発言したりするのは、彼らの個性を考えれば自然の成り行きで、韓国の「反日無罪」の根源はここにあると考えられます。

このように倫理的判断と審美的判断の乱用は、歪んだ個性を形成し、倫理の暴走に至ります。特に、ルサンチマン・被害者意識によって倫理的優位性を振りかざすことは、倫理の暴走を正当化する原動力になります。

印象操作とポピュリズム

さて、ここからは印象操作の類型について考えてみたいと思います。印象操作の方法は次の4つの類型に区分できます。以下、それぞれの類型について事例を紹介しながら説明したいと思います。

  • 自己呈示:自己を偶像化して印象操作する
  • 偶像化:自説の賛成論者を偶像化して印象操作する
  • 悪魔化:自説の反対論者を悪魔化して印象操作する
  • ポピュリズム:印象操作により自説に誘導する

自己呈示:自己を偶像化して印象操作する

<事例>済州平和フォーラム2019/05/30

鳩山由紀夫氏:日中韓の三カ国の問題は、日本側から申し上げると、やはり一番は日本側にその責任の大半があります。すなわち、歴史の事実というものを真剣に見つめて、そして、日本が過去の戦争において間違った行動をしていたことに対しては、ドイツのブラント首相のように、謝罪する気持ちをあらわすことが大事であります。私が申し上げたいのは、戦争に負けた国は、植民地にした国や戦争に勝った国に対しては無限責任を負うということです。すなわち相手の国の人たちが「もう、これ以上謝らなくてもいいよ」と言っていただけるまで、心の中で謝罪する気持ちを持ち続けることが大事であると思っています。その気持ちが、なかなか日本側から韓国や中国の指導者に十分伝わっていないために、日中韓の問題の調和がとれていない。(朝日新聞社『論座』参照)

このように偽善的な言動で自分が道徳的に優れていることを認めさせる自己呈示の手法を【示範 exemplification】と言います。鳩山氏は、日中韓が参加する国際会議において、「敗戦国は戦勝国に対して無限責任を負う」と主張し、中韓から賛辞を贈られました。しかしながら、戦争に関与していない現代の日本人は中韓に謝罪する必要はありませんし、もし子孫が無限責任を負うとすれば、それは「罪人の子は罪人」とする人権侵害です(そもそも韓国は戦勝国でもありません)。鳩山氏は自己呈示のために日本国民を貶めていると言えます。

偶像化:自説の賛成論者を偶像化して印象操作する

<事例>テレビ朝日『モーニングショー』2017/05/30

青木理氏:前川喜平氏は、ある種、爽やかと言ったら言い過ぎかもしれないが、正義感、それからある種の誠意というか、こういう官僚もいるんだなと。「あるものがないというのはおかしい」という素直な憤り、正義感というのを僕は憶えた。少なくとも文科省側は「加計学園をやれ(採用しろ)」ということを共通認識として持たされていたと前川さんが言っているのは事実だと思う。安倍総理が野党に「印象操作」とよく言うのは、自身が印象操作をしているという印象があって、例えば、前川さんが出会い系バーに通っていたというのも印象操作だ。

情報受信者に理想的で英雄的な創作イメージを植え付ける偶像化の手法を【個人崇拝 cult of personality】と言います。青木氏が展開しているこのポジショントークは、「爽やか」「正義感」「誠意」という青木氏個人が造り上げた前川氏の人格に関する好印象を根拠にして結論を導くポジティヴな人格論証です。前川氏が出会い系バーに通っていたのは本人も認める事実です。「安倍総理が野党に印象操作とよく言うのは、自身が印象操作をしているという印象がある」というのも完璧な印象操作です。

悪魔化:自説の反対論者を悪魔化して印象操作する

<事例b>参・本会議2017/06/14

神本美恵子議員(民進):前川前文部科学事務次官は、行政がゆがめられた、あったものをなかったことにはできないと言って告発されました。この勇気ある行動は称賛に値するものです。しかし、信じられないことに、安倍政権では、国家権力を使い、前川前文部科学事務次官のスキャンダルを探し、マスコミに報道させるという行為に出ました。とても許される行為ではありませんし、共謀罪が成立した後の運用を考えてくると、とても恐ろしいことだと思います。安倍政権の下で共謀罪を成立させるわけにはいかないことも、併せてこの場で申し上げておきたいと思います。総理官邸は、前川前文部科学事務次官の発言に対して虚偽であるという趣旨の発言をされていますが、もし本当にそう思われるなら、御本人は証人喚問も受けるとおっしゃっているのですから、国会の場で堂々と議論を行うべきだと思います。総理官邸が証人喚問に否定的であるという事実一つで、どちらが正しいかすぐに分かると思います。個人の人格を攻撃する総理官邸、それに対して何の言い訳もしなかった前川前文部科学事務次官、どちらの言い分が正しいかは、良識ある議員の方だけに御理解いただけると思います。

「A氏の人格は悪い。したがってA氏の言説は偽である。」とする【人格に訴える論証 argumentum ad hominem】の前提となる「A氏の人格は悪い」を主張する言説を【人格攻撃 ad hominem】と言います。前川喜平元文科相事務次官に対して、文科省在籍時にはその人格を攻撃することで政権批判を行った民進党が、いざ前川氏が文科省を辞職して政権批判を始めると、今度はその人格を徹底的に称賛して政権の人格を攻撃しました。これはダブルスタンダードであると同時に、民進党の政権批判が人格評価だけに基づいていることを示しています。

ポピュリズム:印象操作により自説に誘導する

【ポピュリズム populism】と言えば、政治家の行動がしばしば注目されますが、政治家だけでなく、ジャーナリストや言論人を自称する人物の中にも、(1)敵との対決姿勢を鮮明に見せ、(2)自分の道徳性をアピールし、(3)自分の仲間を偶像化(道徳的称賛)し、(4)敵を悪魔化(道徳的批判)することを繰り返している人物が頻繁に見受けられます。彼らは、ジャーナリストや言論人を自称する割には、論理学や倫理学に関する基本知識すら持つことなく、ヤフコメやツイッター投稿者のレベルで、言論とは名ばかりの印象操作を繰り返しています。この結果、リテラシーの低い人たちは、論者の論証ではなく、論者自体の信者になり、ここにカルトが成立するのです。ポピュリズムの事例は、世の中に溢れているのでご自身で見つけて下さい。ツイートの傾向を見ればすぐにわかることです(笑)

前回は情報操作、今回は印象操作について主として述べてきました。次回は【認知バイアス cognition bias】を悪用した【認知操作 cognitive manipulation】について説明したしたいと思います。