メディア・リテラシーの基本概念

言論の基本概念

情報を検証する上でまず最初に必要となるのが、その情報が検証に値するものなのかを判定することにあります。ここでは、この判定に必要となる知識として、言論の基本概念である【文 sentence】【言説 statement】【主張 assertion】【命題 proposition】【論証 argument】【論理 logic】について説明したいと思います。

【文 sentence】とは文法に従って結合した一つ以上の【単語 word】の集合体です。【言説 statement】【質問 question】【要求 request】【命令 command】【知覚 perception】【記憶 memory】【認識 cognition】【信念 belief】【感情 emotion】【主観的評価 qualitative evaluation】【行為遂行的発話 performative utterance】などの意味がある言葉表現はすべて「文」です。

言説

【言説 statement】とは、文のうち客観的な【真 true】あるいは【偽 false】をもつものです。真偽不明でも客観的な真・偽をもつことが保証されていれば、それは言説です。言説は「説」「言明」「宣言文」などとも言われます。例えば次の2つの文は言説です。

  • 1と1を足すと2です(真の言説)
  • 1と1を足すと3です(偽の言説)

一方、質問・要求・命令・知覚・記憶・認識・感情・主観的評価・行為遂行的発話などは言説ではありません。

  • 1と1を足すと3ですか?(質問)
  • 1と1を足して3にして下さい(要求)
  • 1と1を足して3にしなさい(命令)
  • 1と1を足すと3と知っている(知覚)
  • 1と1を足すと3と憶えている(記憶)
  • 1と1を足すと3と思っている(認識)
  • 1と1を足すと3と信じている(信念)
  • 1と1を足すと3であることは嬉しい(感情)
  • 1と1を足すと3とあることは愚かだ(主観的評価)
  • 1と1を足します(行為遂行的発話)

もう少し現実的な例に置き換えてみます。

  • 菅義偉氏は総理大臣ですか?(質問)
  • 菅義偉氏は総理大臣に就任して下さい(要求)
  • 菅義偉氏は総理大臣を辞任しなさい(命令)
  • 菅義偉氏は総理大臣であると知っている(知覚)
  • 菅義偉氏は総理大臣であると憶えている(記憶)
  • 菅義偉氏は総理大臣であると思っている(認識)
  • 菅義偉氏は総理大臣であると信じている(信念)
  • 菅義偉氏が総理大臣であることは嬉しい(感情)
  • 菅義偉氏が総理大臣であることは愚かだ(主観的評価)
  • 菅義偉氏は政策を実行する(行為遂行的発話)

まず、質問・要求・命令には真・偽はありません。次に、知覚・記憶・認識・感情・主観的評価・行為遂行的発話に主観的な真・偽はあっても【反証可能性 falsifiability】はなく、客観的な真・偽はありません。ここで、反証可能性とは「文」を否定できる可能性であり、反証不可能な場合、その「文」は科学的ではないとされます。

「言説」は客観的な真・偽があるので社会的な議論の対象になりますが、「言説」でない「文」は客観的な真・偽がないので社会的な議論の対象にはなりません。国会審議や新聞・テレビ報道等での社会的議論において、個人や組織の主観的な知覚・記憶・認識・感情・主観的評価・行為遂行的発話といった「言説」でない「文」を振りかざしても、後述する「論証」ができないため「結論」が得られず、全く無意味と言えます。つまり、議論から「言説」でない「文」を排除することが重要です。

主張

【主張 assertion / claim】とは、特定の人物が「言説」に賛否を示すことを意味します。例えば「1と1を足すと3である」という「言説」をAさんが賛成したら、それはAさんの「主張」ということになります。「言説」は真であるとは限らないので「主張」も真であるとは限りません。また真・偽がない「文」(言説でない文)は主張になりません。

なお、一般的には、「主張」を裏付ける根拠を持っている場合には【主張 assertion】、持っていない場合には【主張 claim】が用いられます。真偽不明であることを明示する限りにおいて、真偽不明の「言説」を主張することは個人の自由です。しかしながら真偽不明の「言説」や「言説」ではない「文」を他者に強要することは【思想の自由 freedom of thought】の侵害にあたり、【モラル・ハラスメント moral harassment】にあたる可能性もあります。

命題

【命題 proposition】とは論理的な判断を意味する抽象的な概念あり、これを具体的に「文」で表現したものが「言説」です。

例えば、次の「文」はいずれも同一の「命題」を表現する「言説」です。

  • 1と1を足すと3である
  • 壱と一を足すとⅢである
  • 1足す1は3である
  • 1+1=3
  • One plus one equals three
  • One plus one is equal to three

「命題」とは、これらの「言説」が共通して意味する非言語的な実体のことを言います。慣用的に「~がある」「~は~である」という「言説」で表現されることが多く、この例の場合には「1足す1は3である」が代表的表現ということになります。ただし、論理的にはどの表現を用いても【同値 equivalent】(同じ意味)です。このように、「命題」と「言説」を「文」で書くと、見掛け上は同一になりますが、「命題」は抽象的な存在であり、「言説」は具体的な存在(言語オブジェクト)であるという違いがあります。

なお、カント Immanuel Kant が提唱した「義務として絶対的に守られなければならない道徳規範」である【定言命法 categorical imerative】は「至上命令」と日本語訳される場合がありますが、これはしばしば「至上命題」と間違って表記されます。「至上命令」という命令には真偽が存在しないため「言説」ではなく、「言説」でないものは「命題」にはなり得ません。論理学の観点からすれば非常に奇異な表記です。

論証

【論証 argument】とは、【前提 premise】の命題から【推論 inference / reasoning】によって【結論 conclusion】の命題を導く行為のことを言います。「議論」「言論」とも呼ばれます。

推論には1つの前提から結論を導く【直接推論 immediate inference】と2つ以上の前提から結論を導く【間接推論 mediate inference】があります。

  • 直接推論
    (前提)すべての人間は死ぬ
    →(結論)ある人間は死ぬ
  • 間接推論
    (大前提)すべての人間は死ぬ
    (小前提)ソクラテスは人間である
    →(結論)ソクラテスは死ぬ

このうち間接推論の例は、2つの前提から結論を導く【三段論法 syllogism】と呼ばれるもので、間接推理の方法として最も頻繁に用いられるものです。三段論法に用いる前提には【大前提 major premise】【小前提 minor premise】があり、いずれも共通の概念である【媒概念 middle term】を含みます(例における媒概念は「人間」)。大前提とは一般的な【原理 principles】であり、結論の述語となる【大概念 major term】と媒概念の関係を示す命題です(例における大概念は「死ぬ」)。一方、小前提は個別の【事実 fact】であり、結論の主語となる【小概念 minor term】と媒概念の関係を示す命題です(例における小概念は「ソクラテス」)。

論理

「論証」とは、前提から推論によって結論を導く行為のことを言いますが、【論理 logic】とは、真の前提から推論によって理論的・蓋然的な結論を導く行為のことを言います(「理論的」「蓋然的」の詳細は次回の「演繹と帰納」で説明します)。「論証」によって得られる結論の「命題」は偽である可能性がありますが、「論理」によって得られる結論は常に真(理論的・蓋然的)であるということになります。このように「論理」とは、普遍的な「論証」のことを指します。ちなみに「政府の論理では」「野党の論理では」という用法は明らかに間違っています。「論理」は誰のものでもなく一つしかありません。

その意味で、メディア・リテラシーとは、正しい論理によって結論が導かれているかを検証するための知識であると言えます。

  • 文 sentence:一つ以上の単語が文法に基づいて結合されたもの
  • 言説 statement:真・偽がある文
  • 主張 assertion / claim:特定の人物が肯定する言説
  • 命題 proposition:真・偽がある非言語的実体であり、その言語的表現が言説
  • 論証 argument:前提(命題)から推論によって結論(命題)を導く行為
  • 論理 logic:真の前提から推論によって理論的・蓋然的な結論を導く行為

Should-statement

さて、非常に誤解が発生しやすい存在として【べき言説 should-statement】と呼ばれる「文」があります。ここで詳しく見ていきたいと思います。

べき言説とは「すべき」を述語とする「文」であり、日本では「べき論」と呼ばれています。「すべき」というのは【倫理 ethics】に基づく価値観を主張する述語です。普遍的な「すべき」は【義務論 deontology】【帰結主義 consequentialism】による倫理的な検証によって導かれますが、現実の社会で使われている「すべき」の多くは、個人が表明する「すべきと思う」の短縮形です。この場合の「べき言説」は、個人の認識を表明する「文」に過ぎず、論理的な意味での「言説」とは言えません。

なお、前提の「べき言説」から結論の「べき言説」を論理的に求める【義務論理 deontic logic】という分野が存在します。その一方で通常の「である」という前提から「べき」という結論を導くことは不可能とされています。英国の哲学者ヒューム David Hume は「である」を根拠に「すべき」を導くことはできないと主張しました。これは【ヒュームの法則 Hume’s law】と呼ばれ、その誤った論証は【自然主義的誤謬 is-ought fallacy】と呼ばれます。ヒュームの「主張」には反論もありますが、この反論は「である」に見せかけた「すべき」から「すべき」を導く義務論理であるというさらなる反論もあります。この見地からも「である」から「すべき」を安易に導くには十分な論理的検証が必要です。

事例の分析

ここで、これまで説明してきた用語を使って2つの具体的な事例を分析していきたいと思います。まず、一番目の事例として、参議院予算委員会の質疑における蓮舫議員の発言に着目します。

<事例1>参・予算委員会 2021/01/27

蓮舫議員この二十九人の命、どれだけ無念だったでしょうかね。総理、その重み、分かりますか。(1)

菅義偉内閣総理大臣:そこは大変申し訳ない思いであります。

蓮舫議員もう少し言葉ありませんか。(2)

菅総理:心から、申し上げましたように、大変申し訳ない思いであります。

蓮舫議員そんな答弁だから言葉が伝わらないんですよ。そんなメッセージだから国民に危機感が伝わらないんですよ。(3) あなたには総理としての自覚や責任感、それを言葉で伝えようとする、そういう思いはあるんですか。(4)

菅総理:少し失礼じゃないでしょうか。

(1)(2)(4)は、蓮舫議員の個人的な「認識」を表明する【レトリカル・クエスチョン rhetorical question】であると同時に、総理の「言説」ではなく総理の「認識」を問うという議論を進展させることがない非建設的な質問です。(3)は蓮舫議員の個人的な「認識」の表明であり「言説」ではありません。

質疑というものは、「論証」を行うために必要な前提となる「言説」を問い、その「言説(命題)」を前提に結論となる「言説(命題)」を導くプロセスですが、蓮舫議員が行った質疑は言説を含んでなく、ひたすら総理の【人格攻撃 ad hominem】を行ったに過ぎません。国会は政策という「言説」の真偽を問う場であり、「言説」の提案者の人格を問う場ではありません。私たち住民は、このような何のためにもならない無駄な質疑のために血税を支払わされているのです。

次に、二番目の事例として、テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』のコロナ報道におけるテレビ朝日従業員の玉川徹氏の発言に着目します。

<事例2a>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/01

玉川徹氏検査は必要だ。当たり前だ。何かを「やれ!」って言われた時に「できません」と言う人間はどんな社会でも一番使えない。「じゃあお前もういい」と。やっぱり有能な人間は「これをやりなさい」と言った時には何らかの方法でそれを突破して実現する。検査もそういうことだ。(1) 軽症者を隔離する方法もだいぶ前から言っている。「できません」じゃない。「やれ!」なんだ。(2) そのために政治家が選ばれている。政府は言い訳しないでやれ!(3)

(1)は根拠を示さない個人的認識の表明(2)(3)は市民の代表に対する命令です。恐ろしいパワーハラスメント体質が垣間見れる発言です。

<事例2b>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/09

玉川徹氏:英キングス・カレッジ・ロンドンの教授の渋谷健司氏は「日本はもう既に手遅れで、対策強化しなければ数十万人の死者が出てもおかしくない(4)」と言っている。全く安心できない。(5) 行動制限を強くしなければダメだ。(6) ただでさえ緊急事態宣言は遅い。海外から見ても国民から見てもすでに遅きに失しているのに、政府はまだ様子を見るのか。日本も海外事例(レストラン休業と人通り9割削減)に匹敵する対策をしない限りパリ・ロンドン・NYのようになる。(7)

(4)(5)(7)は根拠を示さない個人的認識と(6)は命令です。住民の代理人として市民の代表を住民本位に監視するはずのメディアの一従業員が、国民から付託されていないにもかかわらず、権力を振って市民の代表に命令しました。まさに民主主義を破壊する行為です。

<事例2c>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/13

玉川徹氏家にいることが一番大事だ。これが目的。(8) 「できない」と言ったらだめだ。「もうやるんだ」「もう休むんだ」「家にいろ」なんだ。(9)

(8)は科学的根拠を示さない個人的認識、(9)は命令です。極めて深刻なのは、住民の代理人であるメディアが住民に命令していることです。メディアの暴走以外の何物でもありません。

<事例2d>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/15

玉川徹氏自粛が足りない。(10) 「全部休みにして下さい」と言うしかない。(11)

(10)は科学的根拠を示さない個人的認識、(11)は住民に対する要求です。

<事例2e>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/16

玉川徹氏「うちの会社は一ヶ月閉める」と大企業は皆やらないとダメだ。(12)

(12)は大企業に対して会社を閉めるようテレビ朝日従業員の玉川氏が命令したものですが、その一方で大企業のテレビ朝日が制作する『羽鳥慎一モーニングショー』は休むことなく放送を続けました。恐ろしいダブル・スタンダードです。

<事例2f>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/28

玉川徹氏スタッフに確認したが、39という新規感染者の件数は全部民間のPCR検査の件数だ。土日は行政機関が休みになるので39件というのは全部民間だ。行政検査が土日休みになって民間で検査したものの中の感染者39件だ。(13) GWどうなるんだ。GWに行政は休む。民間だけで行く。行政がやっていないのは確認が取れている。(14)

(13)(14)は真偽を持った未検証の言説です。

<事例2g>テレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』 2020/04/29

玉川徹氏昨日の放送の中で、月曜の都内の感染者数39名すべてが民間の検査機関によるものと私は伝えた。さらに土日に関して行政の検査機関は休んでいたと伝えた。しかし正しくは39名の中に行政機関の検査によるものが多数含まれていた。土日に関しても行政の検査機関は休んでいなかった。(15) 本当にすみませんでした。

(15)は検証された真の言説です。その結果、(13)(14)の言説が偽であることが確定しました。つまり『羽鳥慎一モーニングショー』はデマを放送して、GWも休みなく勤務するエッセンシャル・ワーカーの人格を不当に攻撃したということです。

このように、「文」「言説」「主張」といった言論の基本概念を用いて情報発信者の発言を分析することによって、必要な「論証」が適切に行われているかを検証することができます。この記事で示した事例においては、「論証」によって政権を監視するミッションを持つ国会議員やメディアが、「論証」に必要な「言説」をほとんど述べることなく、「論証」に用いることができない「認識」に終始したり、「要求」「命令」して暴走していることを検証できました。

次回は、「論証」の意味するところについて焦点をあてたいと思います。