人間がその行動の目的とする観念として【善 good】及び【正義 justice】があります。この2つの概念はしばしば混同されて使われていますが、実際には明確に異なる概念です。【リベラリズム=自由主義 liberalism】という考え方とともに説明していきます。
善
「善」とは、古くはゾロアスター教で認識されていた概念であり、ソクラテスによって哲学的に認識され、プラトンによって哲学的に展開され、アリストテレスによって哲学的に体系化されました。アリストテレスの「善」に関わる著作群は息子のニコマコスによって編纂されて後世に伝えられています。これが伝統的な【倫理学 ethics】の書として知られている『ニコマコス倫理学 Nicomachean ethics』です。
アリストテレスによれば、【善(アガトン) good】とは「万物が希求する目的」であり、あらゆる善のうち最上のもの(最高善)が【幸福(エウダイモニア) happiness】であるとされています。その希求目的は、後の研究者によって【友愛(フィリア) friendship】の概念に見られる「有用なもの」「善きもの」「快適なもの」に分類されます。トマス・アクィナスの研究者の山本芳久氏は、これらをそれぞれ有用的善・道徳的善・快楽的善と呼んでいます。
- 有用的善:有用なもの(クレーシモン) useful
- 道徳的善:善きもの(狭義のアガトン) fine
- 快楽的善:快適なもの(ヘーデュ) pleasant
例えば、有用的善とは「コンビニエンスストアは便利で良い」のように論理的に役に立つことを「良い」と判断するもの、道徳的善とは「隣人を愛する行為は良い」のように倫理的に社会通念とされるものを「良い」と判断するもの、快楽的善とは「美味しい料理は良い」のように審美的に快楽が得られることを「良い」と判断するものです。これらは一般的な概念としての[真・善・美]に概ね対応します。
ここで重要なのは、善という価値観は各個人に存在し、ある価値観をもつ個人の善は必ずしも別の価値観をもつ個人の善ではないということです。例えば、あくまで極論ですが、個人の価値観によっては、食物の窃盗行為も、相当の努力をせずに食物を調達できる意味で有用的善、飢えをしのいで尊い生命を守る意味で道徳的善、食欲を満足する意味で快楽的善となりえます。
正義とリベラリズム
「善」と「正義」が異なる概念であることを最初に明確に示したのもアリストテレスです。アリストテレスは、【正義(ディカイオシュネー) justice】とは「法に適い、各個人にとって平等であること」を意味する概念としました。ここで「法」とは個々の社会が定める規範であり、必ずしも普遍であるとは言えません。この普遍を求めて、後世の多くの哲学者が正義を探求しました。その中で、現代世界において正義の基本的考え方として最も参照されているのが、ジョン・ロールズ John Rawlsの『正義論 A theory of justice』です。
ロールズは「善という個人に帰属する価値観を平等に認める社会を構築して維持すること」を正義と考え、各人がもつ善よりも優先されなければならないと考えました。この義務論は【善に対する正義の優越 the priority of the right over the good】と呼ばれ、現代の自由社会の法哲学における【リベラリズム liberalism】の基本理念となっています。
このリベラリズムを展開する上での大前提となっているのが、ジョン。スチュアート・ミル J.S.Millが提唱した【危害原理 harm principle】です。人はそれぞれ自分が求める善を選択して幸福を得る【自由権 civil liberties】を持ちますが、その自由権の行使によって他の人に危害が加われば正義は実現されません。そこでミルは「他の人に危害を及ぼす自由を国家が制限できる」としました。
例えば、窃盗行為は、先述したように、個人の価値観によれば善にもなり得ますが、他の個人に危害を加える行為であるので正義の行為とは言えません。ここにロールズが主張する「善に対する正義の優越」が必要となるのです。日本国憲法における「公共の福祉」も危害原理の一つです。
但し、危害原理を適用して自由を制限するにあたっては、違憲審査基準の【LRAの基準 Less Restrictive Alternative】がそうであるように、明確な根拠を必要とし、慎重であることが要求されます。
なお、ここでいう「リベラリズム」とは、人間の自由権を尊重する「純粋な自由主義」を意味するものであって、政治的統制を弱めて経済的統制を強める[政治的イデオロギー]である「政治的リベラリズム」とは異なるので留意が必要です(経済的統制は結果の平等を実現しますが、同時に機会の不平等を実現します)。当然のことながら、日本において「政治的リベラリズム」を自称する「リベラル政党」や「リベラル知識人」の「似非リベラル」とは全く異なります。
反リベラリズム
個人が多様な価値観を平等に選択することを可能とする「善に対する正義の優越」を基本理念とするリベラリズムに対立する義務論として、「正義に対する善の優越」を基本理念とする【モラリズム moralism】と【パターナリズム paternalism】があります。
「モラリズム」とは、特定の善を絶対視しその善を強制する、あるいはその善に反する善を悪と見なして禁止する義務論です。これを法律で規定する場合には【リーガル・モラリズム legal moralism】と言います。例えば「コロナワクチンの接種は良い行為なので強制する」「飲酒は悪い行為なので禁止する」といったようにその行為自体を良い/悪いと絶対的に判断して強制/禁止するものです。
「パターナリズム」とは、特定の善が当事者に良かれと考えてその善を強制する、あるいは特定の善が当事者に悪いと考えてその善を禁止する思想です。例えば「コロナワクチンの接種は当事者の身体を守る良い行為なので強制する」「飲酒は当事者の身体を壊す悪い行為なので禁止する」といったように、良かれ/悪かれということを絶対的に判断して、判断能力がない当事者に行為を強制/禁止するものです。
共産主義国家や宗教国家といった唯一の教義を信仰する国家では、モラリズムあるいはパターナリズムに基づく法律が多く存在します。いずれにしても指導者による善悪の判断が無謬であることを前提にしていますが、それは論理的・倫理的・審美的に不可能です。
<事例1>日本共産党の民主集中制
<事例1a>産経新聞 2022/09/17
共産党の志位和夫委員長は17日、東京・渋谷の党本部で党創立100周年記念講演を行い、「対米従属」と旧ソ連や中国による干渉などを否定した昭和36(1961)年の党綱領を重視する姿勢を強調した。上意下達の党指導部の独裁を可能にすると批判されてきた組織原則「民主集中制」を堅持する方針も示した。(中略)
志位氏は規律を破る分派主義は絶対に許さないなどの観点から、「民主集中制の原則を守り、発展させることが何よりも大切だという教訓も引き出した」と語り、今後も堅持する方針を明らかにした。
<事例1b>日本経済新聞 2023/01/23
共産党の志位和夫委員長は23日、現役の党員が党首公選制の導入を求めていることについて党規約違反との考えを示した。同党の機関紙「しんぶん赤旗」が21日付で「規約と綱領からの逸脱は明らか」と題した論評を掲載した。志位氏は「的確な内容だ」と語った。
共産党の現役党員の松竹伸幸氏は19日に都内で記者会見し、党員の直接投票による党首公選制の実現を訴えた。志位氏は2000年に委員長に就いた。20年以上にわたって在職しており「国民の常識からかけ離れていると言わざるを得ない」と主張した。
党規約では党大会を「2年または3年の間に1回開く」と定める。代議員による選挙で中央委員を選出し、中央委員の中から委員長ら幹部を決める。
日本共産党の志位和夫委員長が20年以上も在任していることを問題視した日本共産党員の松竹伸幸氏が「党首公選制」を主張したところ、『しんぶん赤旗』編集局次長の藤田健氏が「党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」「決定されたことは、みんなでその実行にあたる」「党内に派閥・分派はつくらない」という民主集中制を組織原則として明記(第3条)しており、「党首公選制」という主張は、規約のこの原則と相いれないものと主張しました。
これは「リーガル・モラリズム」による【人の支配 rule of man】による【法治主義 Rechtsstaat】です。統治者と意見が異なる被治者が統治者になり得ない日本共産党の意思決定システムは【民主主義 democracy】ではなく【専制主義 autocracy】であり、【民主集中制 democratic centralism】なる破綻したマジックワードを根拠に民主主義を装っているだけです。
共産党で被治者が統治者になるには、統治者が専制する唯一の派閥に属することが必要であり、統治者の価値観に従わなければ幹部に抜擢されません。「民主的な議論を尽くす」のであれば、党首公選制という「異なる善」も議論の対象にする自由主義を認めた上で、民主主義の精神に基づいて議論を行うのが妥当です。
過去において、民意によって成立している安倍政権を独裁政権と徹底的に批判しながら、民意を反映しない共産党の専制体制に同意している共産党員は極めて残念な存在です。松竹伸幸氏の問題に対し、小池晃書記局長は「党のルール、党の内部の問題だ。党の中で議論していく性格になる」とし、田村智子政策委員長は「党の見解の通りというか、論文の通りだ」としています。誰もがこの専制体制を認識していながら、自分の地位を守るために声一つ挙げられないと考えるのが蓋然的です。声を挙げれば、松竹伸幸氏のように反党行為として認定され、政治的に排除されることを誰もが知っているからです。異見の持ち主を次々と粛正したロベスピエール・スターリン・毛沢東等が行った【恐怖政治 terror】と同じ手法です。
<事例2>反アダルトビデオ
<事例2>共同通信 2022/05/22
アダルトビデオ(AV)出演被害防止・救済法案の今国会での成立に反対するデモが22日、東京・新宿駅東口の広場で行われた。参加した一般社団法人「Colabo」代表仁藤夢乃さんが、法案では依然、性交を契約内容として認めていると批判し「根本的な被害防止のためには、撮影時の性交を禁止することが必要」と訴えた。
仁藤夢乃氏は、アダルトビデオにおける性交を悪としてその禁止を求めました。これはリーガル・モラリズムです。また、AV出演を「被害」と断じていますが、成人の自由な意思に基づく行為を禁止するのはパターナリズムです。自由の責任を負うのは自由の行使者です。被害原理の乱用は市民の自由権を侵害することになります。
<事例3>女性の社会運動蔑視
<事例3a>藤田孝典氏 twitter 2023/01/16
私なんかより仁藤さんら若年女性が社会活動にかかわることは、何倍、何十倍も大変。 だから繰り返すが、沈み行く日本で女性が社会活動するのはおすすめしない。勝手に滅びるから関わらなくていい。 でもやるからには大変だが、私の何倍、何十倍も努力してくれないと変わらないのが日本。
<事例3b>仁藤夢乃氏 twitter 2023/01/16
この人(藤田孝典氏)、このツイート見ても、社会変える気ないよね。「闘わなければ社会は壊れる」という本を出しておきながら、女性が活動しにくい社会を変える気はないし、そのために動く気なんてないどころか度々邪魔してくる。女性への攻撃に便乗し、無理解な発言を繰り返して女性が活動しにくい状況づくりに加担
<事例3c>仁藤夢乃氏 twitter 2023/01/16
女性が社会活動するのはおすすめしないって、女も社会の一員であり社会活動のなかで実害を受けており、それを変えるために行動し続けているのだが。女性運動の歴史も知らず、全部男たちの功績だと思ってるのか。「社会活動」を男だけの特別なものにしたいのか。社会運動って日常生活と地続きのものだよ
「若手女性が社会活動に関わることは大変なので関わらなくていい」とする藤田孝典氏の発言は典型的なパターナリズムです。これは仁藤夢乃氏が発言する通りであり、女性が社会活動に関わる自由な選択を阻害しています。当然のことながら、社会運動にジェンダーは無関係です。
<事例4>ゼロコロナ
<事例4>産経新聞 2021/2/26
立憲民主党の枝野幸男代表は26日、党の新型コロナウイルス対策の基本方針となる「ゼロコロナ戦略」を発表した。(中略)
枝野氏は記者会見で、政府のコロナ対策を「感染者が減れば経済活動を活発化させ、また感染が拡大する『元のもくあみ』を繰り返している」と批判。「ウイルスをゼロにするわけではない」とした上で「感染拡大の繰り返しを防ぐ段階まで感染状況を抑え、再拡大しない封じ込め策を徹底的に打つ」と説明した。(中略)
枝野氏は記者会見で、日本と同じ島国の台湾、オーストラリア、ニュージーランドが同種の戦略で感染拡大防止に成功し、その結果、経済活動も順調に再開できていると指摘。「ゼロコロナ戦略こそが経済にも結果的にはプラス」と主張した。
ゼロコロナは「国民に良かれ」と判断し、国民の移動の自由や集会の自由といった自由権を制限するパターナリズムの政策です。日本の大衆は、ワイドショーの命令に従い、自由権の制限に慎重な安倍首相と菅首相を人格攻撃し、自らの自由を制限するよう求めました。極めて驚くべきことに、日本の大衆は政府から命令されないと自らの自由を制限できなかったのです(笑)。残念なことに、自ら自由を勝ち取ったのではなく第二次大戦後に米国に自由を与えられた日本社会は「自由の行使には責任を伴う」という【権利 rights】と【義務 duty】の関係をよく理解できていないのです。
ちなみに、ゼロコロナ政策は、世界のすべての国で破綻しました。コロナ流行の波は変異株の発生によって生じ、抑止することは税金を湯水のように使っても不可能です。コロナ騒動で判明したのは、日本の自称リベラル勢力が、国家の非常時に、ゼロコロナという反リベラリズムを高らかに主張し、国民の自由を徹底的に制限しようとしたという事実です。
<事例5>アベ政治を許さない
<事例5a>日本経済新聞 2017年7月1日
安倍晋三首相は1日、JR秋葉原駅前で都議選期間中初めてとなる街頭演説に立った。一部の聴衆から「帰れ」コールが巻き起こり「演説を邪魔するような行為を自民党は絶対にしない」といらだちをあらわにし、ヤジを飛ばす聴衆に向かって指を指して「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と反論する一幕もあった。
暗殺された安倍晋三元総理は在職中に日本の自称リベラル勢力から「アベ政治を許さない」と罵倒されました。これはモラリズムによるリベラリズムの否定です。その象徴的な事件がJR秋葉原駅前の安倍氏の演説に対する選挙妨害でした。自称リベラル勢力は、選挙演説中の安倍氏に対して、組織的に「安倍帰れ、安倍ヤメロ」コールを行って演説を妨害しました。
さらには、安倍氏がこの妨害行為に対して「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と反論すると、朝日新聞を始めとする自称リベラル系マスメディアは「自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる」などとして安倍氏を非難しました。
<事例5b>YAHOO!JAPANニュース 2017/07/03
■「こんな人たち」発言にみる安倍自民の本当の敗因 江川紹子氏
内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だろう。仲間や支持者だけではなく、批判勢力を含めた、あらゆる国民の命や生活を預かっている。なのに安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉でくくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させたのである。「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と。
内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だろう。仲間や支持者だけではなく、批判勢力を含めた、あらゆる国民の命や生活を預かっている。なのに安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉でくくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させたのである。「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と。
都議選の応援は、自民党総裁という立場で行ったものだろうが、安倍さんを紹介する垂れ幕には、しっかり「内閣総理大臣」と書かれ、司会の石原伸晃議員も「ただいま、安倍総理が到着しました」と紹介していた。
小泉内閣の総理秘書官だった小野次郎・元参議院議員は、ツイッターで次のように書いている。
〈この方は、自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる。総理になって何年も経つのに、この方は全国民のために選ばれた職にある自覚は持ち合わせない、遺憾ながら。〉
同感である。
安倍氏は、民主主義の根幹である選挙の妨害行為を組織的に行う群衆に対して「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と主張したのであって「自分に反対の考えを持つ人々は国民ではない」と主張したわけではありません。これは極めて悪質な[ストローマン論証]です。日本の自称リベラル勢力は、自分に反対の考えを持つ人々との議論を論理的に進めることなく、自分に反対の考えを持つ人々を悪魔化してモラリズムで排除するのです。対照的に安倍氏はどんなに罵られ続けても異なる意見を排除することはありませんでした。日本の自称リベラル勢力の選挙妨害は明確に「正義」に反するものであり、反リベラリズムに他なりません。