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Flag-waving / Appeal to patriotism / Appeal to nationalism
愛国心・ナショナリズムを喚起させて論者/論敵の言説を肯定/否定する
<説明>
【祖国 homeland】を愛する感情として【愛国心 patriotism】と【ナショナリズム nationalism】があります。
「愛国心」とは、特有の自然・住民・言語・文化・歴史などをもつ祖国に対する【愛着 attachment】の感情のことです。愛着理論によれば、人は乳幼児期に親や養育者を安全基地と認識して精神的絆や一体感をもちますが、同じメカニズムで祖国にも精神的絆や一体感をもつと考えられています。一般に愛国心は国際社会で肯定的な感情と認識されています。
一方、「ナショナリズム」とは、【国家 nation】【共同体 community】としての祖国に対する【忠誠 loyalty】の感情のことであり、自国の利益獲得を行動原理とします。しばしば【民族主義 ethnic nationalism】と結びついて、攻撃的な【排外主義 xenophobia】を肯定する【排他的ナショナリズム chauvinism】に陥ることがあります。アドルフ・ヒトラーがゲルマン民族の優性とユダヤ民族の劣性を主張した「汎ゲルマン主義」「反ユダヤ主義」や東アジアの一部大衆がもつ「国を愛するがゆえの違法行為は無罪である」とする「愛国無罪」はその典型です。一般にナショナリズムは国際社会で否定的な感情と認識されています。
「祖国に訴える論証」とは、愛国心あるいはナショナリズムを悪用して、自国民に対して自説を無批判に肯定させる、あるいは論敵の言説を無批判に否定させるものです。人はしばしば、愛国心あるいはナショナリズムによって、自国を無批判に肯定して行動するよう動機付けられてしまいます。このため、理性を超えた愛国心あるいはナショナリズムを喚起することによって、自国のためという名の下に、様々な言説を都合よく肯定・否定させることが可能となるのです。
ここで留意が必要なのは、祖国に訴える論証でマニピュレーターが明示的に問うのは愛国心の有無であり、ナショナリズムの有無を問うことは殆どないということです。これは、先述したように、一般に愛国心は肯定的に捉えられ、ナショナリズムは否定的に捉えられているからです。実際、ナチスドイツ・ソヴィエト連邦・中国共産党などによる大衆操作の【プロパガンダ propaganda】は、ナショナリズムを愛国心と混同させた上で、愛国心を高らかに叫ぶことによって、祖国に訴える論証を展開するものでした。
ちなみに、日本の場合、戦前戦中の軍国主義の反動から、愛国心とナショナリズムを同一視し、否定的に捉える戦後教育が行われました。しかしながら、愛国心は個人がもつ自由な愛着の感情であり、教育によって否定されるものではありません。この間違った戦後教育に対する【反発心 psychological reactance】が逆に偏狭なナショナリズムを生み、【ヘイト・スピーチ hate speech】などの形で現出しています。
しばしば祖国に訴える論証は、自分と異なる主張を認めない専制政治家によって利用されています。特に「非国民」「国賊」「売国奴」「スパイ」などといった論敵に対する誹謗によるレッテル貼りは、自国民の暴力性を引き出し、現実空間のテロやサイバー空間のネットリンチを誘発しています。
また、ナショナリズムも、個人がもつ自由な忠誠の感情である限りにおいては、教育によって否定されるものではありません。ただし、忠誠を他者に強要するのは人権侵害です。忠誠は、安全基地としての国家への貢献を自発的に望む結果として生じるのが健全な姿です。
国家への義務的な忠誠心を【忠誠義務 allegiance】といいます。米国の公立学校で生徒が毎朝唱える「忠誠の誓い pledge of allegiance」はその典型です。
Pledge of allegiance: I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands. One nation under God, indivisible, with Liberty and Justice for all.
忠誠の誓い:私は合衆国国旗とそれが象徴する共和国に忠誠を誓います。万民のための自由と正義をもつ、不可分な、神の下にある一つの国家に。
なお、日本の公立学校で公式行事の際に行われる「君が代斉唱」は国歌斉唱という儀礼的所作であり、米国の忠誠の誓いとは性質が異なります。また、五輪やW杯などの国際スポーツ競技会の表彰式で行われる国歌斉唱も祖国の選手の健闘を愛国心で称える儀式です。このような本来の姿を国威発揚のプロパガンダとして政治利用し、ナショナリズムを扇動したのが、ナチス・ソ連・東欧・中国・北朝鮮・ロシアなどの専制国家です。
「国を愛していないの?」という言葉で、他者に罪悪感を喚起し、自説を信じるよう強制する【感情的恐喝 emotional blackmail】も祖国に訴える論証の変化形です。
主張Xは真/偽である。愛国心があればわかることだ。
主張Xを肯定/否定するのは、愛国心がないからだ。
愛国心があれば、主張Xを肯定/否定することはできない。
<例>
A:あいつは国賊だ。あいつを信じてはならない。
B:あいつは売国奴だ。あいつが言うことは全部デタラメだ。
C:あいつが売国政策を好むのは外国でハニートラップに引っかかったからだ。
D:あなたに愛国心があれば、わが党の政策を支持するはずだ。
E:子どもを生まないのは愛国心が足りないからだ。
政策策定能力が皆無の政治家が、中身のないスローガンを猛々しく叫ぶと同時に、論敵をスケープゴートにして口汚く誹謗中傷することで、情報リテラシーが低い人々を騙すという政治手法は、現在世界中で展開されています。
<事例1>愛国ハッカー
<事例1>CNN 2017/06/02
米大統領選介入、「愛国ハッカー」の仕業? プーチン氏
ロシアのプーチン大統領は1日、サンクトペテルブルク経済フォーラムの席上、「愛国的ハッカー」が昨年の米大統領選に介入した可能性があると示唆した。米大統領選に関係したサイバー攻撃がロシア発だった可能性をプーチン大統領が認めたのはこれが初めて。プーチン大統領はこれらのハッカーを、絵を描く芸術家になぞらえた。「もし愛国心があれば、(芸術家もハッカーも)ロシアを悪く言う人々と戦うため、自分に合った方法で(国に)力を貸すだろう」とプーチン大統領は述べた。一方でプーチン大統領は、ロシア政府はサイバー攻撃とは無関係との立場を変えなかった。
典型的な愛国無罪です。
<事例2>北朝鮮の出産強要政策
<事例2>アジアプレス・ネットワーク 2024/04/30
なぜ北朝鮮の女性は子どもを産まなくなったのか?(3)
金正恩政権は昨年12月、平壌で開かれた「母親大会」を機に、出産奨励政策を積極的に宣伝し、多様な支援を打ち出す一方、女性の間に現れている結婚忌避現象をなくし、革命的な家庭づくりに賛同するよう積極的に訴えているという。
「(出産する世帯に対して)国から食糧も支援し、女盟(女性同盟)などを通じて、『税外負担』を免除し、妊産婦を支援すると通達しました。宣伝も強化しています。母親としての役割を果たさなければならない、(子どもを持たずに)独り身で暮らすというのは資本主義的な考えだ、子どもが一人だけの家庭は愛国心が足りないと強調しています」「賢明な人たちは、妊娠しないようにします。産むとしてもひとり。2人産んだら、バカ扱いされます。もし貧しい家庭が子どもを産んだら、『子どもをコチェビ(浮浪児)にするつもりなのか』と露骨に言う程ですから」(協力者A)
「(未婚カップルの)同居、堕胎現象と闘争することについての会議がありました。『同居は、結婚を忌避して公序良俗を乱す行為とみなして処罰し、結婚登録をしないのは自分だけいい暮らしをしようとする非社会主義行為である。積極的に申告して闘争しなければならない』と通達しました」「一番激しく闘争するのは中絶です。隠れて手術をした人も、手術を受けた人も罰せられます。とりわけお金をもらって中絶手術を施した者に対しては、教化(懲役)に送ると脅しています」(協力者B)
昨年12月、自宅で中絶手術をした恵山(ヘサン)市病院の産婦人科助産員が、「労働鍛鍊隊」に送られた。手術を受けた女性はまだ若いという理由で法的処罰を受けなかったが、当局は彼女を呼び出して責め、侮辱したという。「労働鍛錬隊」とは、社会秩序を乱した、当局の統制に従わなかったと見なされた者、軽微な罪を犯した者を、司法手続きなしで収容して1年以下の強制労働に就かせる「短期強制労働キャンプ」のことだ。全国の市・郡にあり保安署(警察)が管理する。
出生率低下を懸念する北朝鮮の金正恩政権は、子どもが一人だけの家庭を「愛国心がない」と非難し、中絶を厳罰化する方針を発表しています。政府が脅して出産を強要する恐ろしい世界です。